母は認知症で病院にいて、もう家に帰ってくる事は無いと思います。


母の生い立ちについて、戦争が始まる前の幼少期は神奈川県の川崎に住んでいて

お手伝いさんがいるような所謂お嬢様育ちだったようです。

でも戦争が始まり、岡山県に疎開して生活が一変しました。

祖父は兵隊として戦地に出ていて、岡山市にある祖母の実家に身を寄せる事になりました。

戦況が激しくなって岡山市も空襲にあい、夜中でもサイレンが鳴ると皆一斉に逃げ出し

焼夷弾が降る中、ただただ走ったそうです。

大人も子供も叫んだり泣いたりせず、ひたすら走って逃げたと聞きました。

母の足の甲には、その時の焼夷弾の火傷の跡が残っています。


母たち親兄弟5人は

岡山市がそのような状況なのでもっと山の方の親戚の家でお世話になる事になりました。

小屋のようなところに住まわせてもらい、食べる物も少なく生活は厳しかったと思います。

日本国中、みんな辛く厳しい時代

生きる死ぬが紙一重。それが戦争によってもたらされること。


そして終戦

すぐさま生活が戻るはずもなく

そんな中、祖父が戦地から帰還。束の間の幸せな時間だったようです。

川崎での仕事は立て直す事が出来ないので、そのまま岡山で郵便局員として働きだし

さぁこれから、という時に祖父が病気になってしまいました。

肋膜炎で戦後の物がない時代なので手術も麻酔無し、病院に入院することも出来ず

みるみる衰弱していったそうです。

母が小学5年生の時に、祖父は亡くなりました。


小学校の卒業を待たずに母は、お手伝いさんとしてよその家に出されました。


ここから、母はまた辛い時期に入ってしまうんです。

戦争さえなければ...

また、次にお話の続きを書かせて下さい。





たんぽぽ

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